今朝は南大沢駅からご挨拶させていただきました。
国葬だろうが、国葬儀だろうが、重い式であるという位置付けを前提に、有権者からの素朴な感情として、これまでの歴代総理が果たした役割、その見送り方に比して、という疑問が根幹にある。
加えて、お友達政治と言われるように、入札落札業者などからも、一事が万事、国家財政を自民党自身の財布のような取り扱うこと、すなわち、仲間内に利権を分配すること、自民党葬にすることによる自己負担の軽減以外に何があるのか、という不信は拭えない。
各国からの弔問、警備とか、民主主義に対する挑戦に対抗するとか、襲撃の動機が旧統一協会の被害にあり、そことの癒着による弊害が明らかになっている中で、答弁が、実態を踏まえておらず、ポジショントークで空虚だ。
本来なら、議論とは、未来へのビジョンへのぶつかり合いで、議論されることで熟していくもの。国会の議論は、聞いているだけで勉強になるような内容が交わされ、そして、未来に向けて、実行されるべきはずなのだ。
政治不信や政治無関心を引き起こしているのを、延々と続けられることやりきれない。